一般社団法人 日本形成外科学会

女性医師のキャリア形成

(日本女医会HP「学術研究助成受賞者の軌跡(1991)」http://jmwa.or.jp/kiseki/post-119.htmlより転載)

藤田保健衛生大学形成外科教授
吉村陽子

助成受賞にいたるまでとその後約20年の軌跡

 この度、日本女医会から原稿依頼を頂き、女医会から研究助成金を頂いたことを思い出した。研究テーマは正確に記憶していないが、「プロスタグランディンE1動注による皮弁生着率向上の試み」だったと思う(当時のコンピューターがすでに廃棄され、記録が読み出せなくなっており、心もとない)。そもそも、私自身は「女医」という区別をされることをあまり快く思っていなかったため、女医会の存在は知りながらも、昭和50年医学部卒業以来ずっと入会していなかった。昭和57年に本学に赴任してから数年後、「女医会の研究助成金制度がある、そのためには入会3年以上という条件がある、だから女医会に入っておけ」と、上司の前教授に言われて入会させていただいた。入会3年を経て上記のテーマで助成金に応募し、幸運にも受賞することができた。形成外科はあまり存在を知られていない診療科で、皮弁ということばなどもなじみが無かったため、受賞式で贈呈者の先生が論文のタイトルを大変読みにくそうにしておられたことを覚えている。

 以来約20年近く経過しているが、私は形成外科の臨床および臨床研究に重点を置き、ずっと大学で過ごしてきた。10年前に先代の教授が母校の教授に転進されたのを受けて、2代目教授に昇任した。現在でも日本形成外科学会唯一の女性教授である。この間私の夫(慶応義塾大学教授、現日本産科婦人科学会理事長‡)とは、ほとんど別居生活で、私のキャリア形成は全面的に夫と子供の理解の上にある。前教授に伴って東京に戻るという選択肢もあったにもかかわらず、私が当地に残ってキャリアアップすることを家族は容認してくれた。子供(娘31歳、臨床心理士。婚カツ中†)は、今でこそ私の強い味方であるが、成育課程はなかなか大変だった。0歳から1歳までは私の実家に預け、週末には親子ともども母の元に転がり込む生活。1歳1ヶ月から横浜市の無認可保育園に預け、当直の日や帰りが遅くなるときは特定の保育士さんに別料金でお宅に寝泊りさせていただいた。夫は私以上に多忙であったため、ほとんどあてに出来なかったが、土曜日には早朝カンファレンスに出る私に代わって保育園の送り迎えをしてくれた。出張研修を終えても横浜から信濃町の慶応病院まで首都高速を飛ばして通ったのも、その保育園から離れがたかったためであるが、子供が発熱すると、千葉県市川市に住む母か、埼玉県の浦和に住む兄嫁に電話し、一都二県を股にかけて高速を突っ切って子供を預けに行く、という生活だった。今思うと、やはり若かったからできたこと。もう一人産みたい、という思いは封印せざるを得なかった。

女性のキャリアアップに大切なもの

 以前から女性のキャリア支援に何とか力になりたいと思いながら、その機会を得ぬまま過ごしてしまった。現在でも女性医師を取り巻く環境は、私が子育てをした頃と大きく変わってはいないと思われる。最近やっと、学内外で男女共同参画の仕事にかかわる機会を得て、本学内にも女性医師の会を立ち上げたところである。

 社会の制度は徐々に整備されつつあるものの、医者の世界ではまだまだ男性医師にも厳しい労働状況が続いている。「女性の」と訴える前に、男性医師においてもワークライフバランスを改善することが絶対的に不可欠であろう。だが、社会の変革を待つだけでは解決しない。やはり「仕事を続けたい」という本人のモチベーションが第一である。最近の女性医師を見ていると、「保護されて当然」と思っているように見える。男性の側は、「家庭を守ってくれる妻が欲しい」と考える人が多いように思う。顧みてつくづく、単身赴任でがんばってくれたわが夫を限りなく敬愛するものである。

*吉村陽子:随想―子育て支援は夫のひと言から。形成外科、49:479、2006

‡注 2014年3月慶應義塾大学を定年退職、現在名誉教授。2007年4月から2011年6月まで日産婦理事長

†注 2014年結婚しました